生ける屍
先日、友人と話していて、その人がとても気に入って貰えた表現があった。
リビングデッド
生きる屍という意味だ。
自分の周りでは、学生や社会人、職種に限らず今を精一杯生きている人達がたくさんいる。
ある時から大部分の人間に対して独特な違和感を感じるようになった。
皆、ただただ疲弊している。
自己啓発の類のように意識を高く持つことが大切ということではないが
そんなもので、解決だとか改善にむかうようなものではない根本的な闇を感じる。
最も難しいパズルというのは、絵が描かれていないジグソーパズルらしい。
この難しさは、今自分が組み合わせているパーツが正しいのか、その戦略であっているのかどうかを図れない点にある。ミッキーマ◯スのパズルでいうと、いくらなんでも帽子の部分を作ろうとしているか、はたまた顔の部分を作ろうとしているのかくらいは想像ができる。しかし、真っ白なパズルには帽子や顔はおろか、背景も体もなにもかもが無いのである。
絵の描かれていないジグソーパズルという人生をみんな一生懸命に組み立てては、ピースが揃わない事に途中で気づき修正に取り組んでいる。
今、生きている人生の瞬間において手を動かしてこそはいるものの、何の絵を描こうとピースを組み立てているのかは最後にわかると思い込む。そして、完成してもただの白い絵しか出来なかった時に感じるの絶望ではないだろうか?
現段階ではまだ訪れていない絶望への歩みは、今この時に疲弊そのものという形で示されているのかもしれない。
それは、生きている。だけれども、死んでいる。
文字で伝える
まだまだ、忘備録としてブログを使う。
自分の内面の部分で深く、反省と工夫が必要な要素がある事に気がついた。
それは、文字で伝える力である。
僕は自他認める右脳タイプの人間である。早い話が、文字で伝えることが病的に下手くそなのである。先日、DC2用の申請書の文面上で自分の研究を魅了的に伝えることがどうしてもできずに苦悩した。特に悩んだのは、”文書を書くにあたってどのような指針で書けば良いか?”という指南書はこの世の中に腐るほどあるがそれらの情報を手にしていながら全く使いこなせないという事実である。
今回の気づきを機に、日々、ブログの記事作成を通じて文字で伝える能力を少しでもよくしていこうと思う。
使わなければ身につかない以上、駄文の量産から初めるしかないが、徐々にスキルアップをしていくしかない...
ものごとのあいだ
昨年の夏から今年の1月にかけて、毎日お酒を飲む習慣ができてしまった。
頭の中でダメだとわかっていて止めない事から、アルコール中毒なのではないかと途中から思っていた。しかし、やめる理由も見当たらず長引いてしまったのだが、つい先週頃に思い立って取り組んでみると案外すんなりとやめる事が出来た。
禁酒の効能は様々あるが、自分でも意外だったことの一つに
書く
という行為をこれまで以上にするようになった事には驚いた。
言い換えると、わざわざするまでもない何か余計な事をするというアクションについて前向きに取り組めるようになった。
研究ノート等に実験の事項や議論の内容をメモするのだが、飲酒の期間を見てみるとメモの内容も薄く情報漏れだらけで反省している。きっと、習慣的に飲んでいるとお酒を飲んでいない時ですら、酔っている状態に等しくなるのかもしれない。
止めて見て良かったという実感は非常に強い。
ここで考えてみたい事がある。
大多数の人が一度は以下のような事で悩んだ事があるだろう。
やめればいいと分かっている事をなんで人はやめられないのだろうか。
その逆も然り。