書くことについて考えてみたい①
なんで、人は書物やブログ、あるいはTwitterや掲示板に書き込むという形でライティングに取り組むのだろうか。むしろ、なぜ書きこんでしまうのだろうか?
あるいは、なぜ書くという表現方法を用いて表現せずにはいられない人とそうでない人がいるのだろうかと考えた方が適切なのかもしれないが、それはおいておこう。
ライティングにせよ、なんにせよ行為には目的がある。
さらに、この“目的”には、誰に向かっていくか・誰のために行うかという方向があるのではないだろうか。
(余談だがデザインの本質は意図する人に、届けたい意味を届けるということらしい)
それも、目的の向きというのは2種類に分けられる。
“自分”か“自分でない人”
デザインという場合には、自分でない人の中でもどのような人に?という問いが重要になってくる。例を挙げると、大人向けか子供むけ、男性向けか女性向けなのかといったものである。
しかし、書くことについては自分か自分以外という観点で見ることがより重要になるという点で興味深い。
改めて、目的の向きによる中身の違いをそれぞれ見てみたい。
まず初めに、“自分”のために書く時は、忘備録やメモ、日記、etc.だろう
思考整理や自己表現といった意味合いが強いだろう。
はてなブログでは、思考整理のために利用している人が多いように感じる。さらに、そのようなコンテンツも非常に人気があるように感じる。
まるで、展示会に展示した作品に対して勝手にお客さんがワラワラと集まり、お客さん同士で議論しているような光景である。
お客さん側は、自分の中に存在する言葉や思想のパズルの欠けていたピースを見つけた喜びに震えているような感じなのかもしれない。
無理矢理、結論を叩きだすと
自分のために書く文章は、思考の整理を辿る過程が含まれてしまう。過程が含まれていることは、迷える読み手側に取っては幾つかの魅力的な点がある。特に、他人の思考の展開(ストーリー)が追えることが代表的なことかもしれない。これは、自分自身の中にある、あるけれども形として見えなかった思考を具現化できるからだ。
従って、自分の思考整理というアプローチで物事を表現することには、読み手の中に確かに存在するけれども、見えなかった何かを呼び起こす力があるのではないだろうか。
反対に“自分でない人”のために書く時は、まさに情報提供あるいは呼びかけ、職業としてのライター等々が挙げられる。
ここで見られるように、職業として書くことが成り立っている事実がある。
これは、情報が金銭的価値を生むということを示している。また、受容と供給があるという事実も指し示す。
即ち、この“自分でない人”のために書く行為には、社会に認められる形で生産性があるということなのかもしれない。
ここで、先述した“自分”のために書くことと対比すると
“わたし”の中にあるものを引き出すよりも、そもそも存在しなかった情報を足すという意味合いが強いのかもしれない。
また、気が向いたら続きを書いてみる