ものごとのあいだ
昨年の夏から今年の1月にかけて、毎日お酒を飲む習慣ができてしまった。
頭の中でダメだとわかっていて止めない事から、アルコール中毒なのではないかと途中から思っていた。しかし、やめる理由も見当たらず長引いてしまったのだが、つい先週頃に思い立って取り組んでみると案外すんなりとやめる事が出来た。
禁酒の効能は様々あるが、自分でも意外だったことの一つに
書く
という行為をこれまで以上にするようになった事には驚いた。
言い換えると、わざわざするまでもない何か余計な事をするというアクションについて前向きに取り組めるようになった。
研究ノート等に実験の事項や議論の内容をメモするのだが、飲酒の期間を見てみるとメモの内容も薄く情報漏れだらけで反省している。きっと、習慣的に飲んでいるとお酒を飲んでいない時ですら、酔っている状態に等しくなるのかもしれない。
止めて見て良かったという実感は非常に強い。
ここで考えてみたい事がある。
大多数の人が一度は以下のような事で悩んだ事があるだろう。
やめればいいと分かっている事をなんで人はやめられないのだろうか。
その逆も然り。
やれば良いと分かっているのになぜやらないだろうか。
ものすごく身近すぎる悩みで、あっても無い事にしている人もたくさんいると思う。
それだけ、身近な存在なので問題点を指摘するがごとく
だとか、
といった、やる/やらないに関するKnow-Howやアイディア本を本屋で頻繁に見るようになったと個人的に感じる。
それだけ、関心の多いテーマなのだと改めて気付かされる。
しかし、考えてみたい事がある。
やる(行為)とやらない(非・行為)は、相反する2択である。論理的な手法で扱うと、Aと非Aという形で示される。
ここで、疑問なのはやる(行為)とやらない(非・行為)という2つの命題の"あいだ"はないのだろうか。
いうなれば、
善(A)・悪(非A)、そして、どちらでもないもの(0)、どちらでもあるもの(A/非A)
といったように扱う方が真実に近づける議論を行えるだろうという考えである。
世の中の様々な事は、二元論からスタートする様式をとることでスマートな説明・論理展開を広げることを可能としている。
しかし、個人的にはこの二元論で議論・思考しようとする態度によって、破壊に近い形ですら結論が出てしまう事があるのではないかと思う。
まるで曖昧な理論なので、説明が非常に困難であるが考える価値のある思想だと思っている。何よりも、裁きの存在という呪縛から逃れられるのではないかと期待している。