【忘備録】書き始めることについて
前回の話題に続いてだが、書くことについて色々と考えている。
考えようとしているものの、現実には思考ではなく模索の行為を行っている。
今回は、二冊の本を読んだので忘備録も兼ねて紹介しておきたい。
併せて2冊の本を購入し早速読んだ。いずれも有名どころの本であろう。
まずはじめに、タイトルだけそれぞれ紹介しよう。
①できる研究者の論文生産術
できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)
- 作者: ポール.J・シルヴィア,高橋さきの
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/04/08
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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研究を行っている大学院生なら生協で一度は見たことがあるはず。
きっと、胡散臭いと思ったかもしれないが非常に的を得ている。
②思考の整理学
知る人ぞ知る著書(らしい)。
発売日は古いが、洞窟の壁にすら最近の若者ときたら...という悩みがあり、現代でも同じように人々が悩んでいる様子を見ていると、悩みや解決の本質を30年そこいらじゃ変わらないだろう。
二冊挙げたものの、今回は①の本がベースである。
続きを読む書くことについて考えてみたい①
なんで、人は書物やブログ、あるいはTwitterや掲示板に書き込むという形でライティングに取り組むのだろうか。むしろ、なぜ書きこんでしまうのだろうか?
あるいは、なぜ書くという表現方法を用いて表現せずにはいられない人とそうでない人がいるのだろうかと考えた方が適切なのかもしれないが、それはおいておこう。
ライティングにせよ、なんにせよ行為には目的がある。
さらに、この“目的”には、誰に向かっていくか・誰のために行うかという方向があるのではないだろうか。
(余談だがデザインの本質は意図する人に、届けたい意味を届けるということらしい)
それも、目的の向きというのは2種類に分けられる。
“自分”か“自分でない人”
デザインという場合には、自分でない人の中でもどのような人に?という問いが重要になってくる。例を挙げると、大人向けか子供むけ、男性向けか女性向けなのかといったものである。
しかし、書くことについては自分か自分以外という観点で見ることがより重要になるという点で興味深い。
改めて、目的の向きによる中身の違いをそれぞれ見てみたい。
まず初めに、“自分”のために書く時は、忘備録やメモ、日記、etc.だろう
思考整理や自己表現といった意味合いが強いだろう。
はてなブログでは、思考整理のために利用している人が多いように感じる。さらに、そのようなコンテンツも非常に人気があるように感じる。
まるで、展示会に展示した作品に対して勝手にお客さんがワラワラと集まり、お客さん同士で議論しているような光景である。
お客さん側は、自分の中に存在する言葉や思想のパズルの欠けていたピースを見つけた喜びに震えているような感じなのかもしれない。
無理矢理、結論を叩きだすと
自分のために書く文章は、思考の整理を辿る過程が含まれてしまう。過程が含まれていることは、迷える読み手側に取っては幾つかの魅力的な点がある。特に、他人の思考の展開(ストーリー)が追えることが代表的なことかもしれない。これは、自分自身の中にある、あるけれども形として見えなかった思考を具現化できるからだ。
従って、自分の思考整理というアプローチで物事を表現することには、読み手の中に確かに存在するけれども、見えなかった何かを呼び起こす力があるのではないだろうか。
反対に“自分でない人”のために書く時は、まさに情報提供あるいは呼びかけ、職業としてのライター等々が挙げられる。
ここで見られるように、職業として書くことが成り立っている事実がある。
これは、情報が金銭的価値を生むということを示している。また、受容と供給があるという事実も指し示す。
即ち、この“自分でない人”のために書く行為には、社会に認められる形で生産性があるということなのかもしれない。
ここで、先述した“自分”のために書くことと対比すると
“わたし”の中にあるものを引き出すよりも、そもそも存在しなかった情報を足すという意味合いが強いのかもしれない。
また、気が向いたら続きを書いてみる
つまみ書き
ブログタイトルをReach the wordに変えた。
ここ最近、自分は研究とは関係の無いことにばかり浮気(勉強)している。
具体的に勉強しようとしていることは、仏教や禅のような宗教観やコミュニケーションに関する知識、そして伝えるためのデザインに着目している。
背景には、以下の3つの要因がある。
-
① 暇つぶし
-
② 精神の不調なく博士後期課程を卒業するテクニックを身につけたい
-
③ 人生を気楽に生きる術をみにつけたい
①については、自分自信の研究するモチベーションが沸かなくて無理矢理に奮い立たせなくても良いだろうと開き直っていること。開き直っていても暇になるので何か興味のあることを勉強しようと思ったのだ。
②については、病んでる人を効率よく生産している博士後期課程において、感情のコントロールや生き方のようなテクニックを身につけなければ僕は辛くなりすぎてしまうと予想している。避けられる苦痛は避けたい。
そうだ!仏教だ!!
現代は謎の宗教やセラピーなど胡散臭いものが蔓延る現代である。そして、くだらない悩みも蔓延る時代だ。一番いい方法を探してみた結果、1000年を超える知の集大成である仏教のテクニックを駆使すれば克服できるのではないだろうかと仮設を立ててみた。
③については、永遠のテーマだ。人生は楽しく生きたいものである。
楽しく生きるためには何が必要か考えた。
考えた結果、以下の3つの要素を組み合わせることが自分自身にとって必要なことではないだろうかと辿り着いた。
- “苦”の理解
- 他者に対して、自分の伝えたいことを受け入れてもらえる術を身につける事
- 圧倒的に巨大な存在(比較対象として)
ここまで、頭で思い浮かんだことを延々と書いてしまったので何を伝えたいのか分からない文章となってしまっている。初回の記事もそのように感じる。
そして、こういった僕の表現方法は人を混乱に陥れることが多く、つい先日も教授から「何を言ってるのか全く分からない」と、指摘されてから相当に塞ぎこんでしまった。
このままではいけない... というか、工夫すればいいだけのこと工夫しないで苦労するのは非常に悔しいし許せない。
細かいことは良いだろうとこれまで思っていたが、この記事以後は伝えるテクニックとやらを学んで取り込んで表現していくつもりである。
時が経って、振り返ってブログを見た時に変化を感じられるといいな。